体温

「流子ちゃんがこっちの道を通って帰りたいだなんて、めっずらしいねぇ!」

 そのおかっぱの少女満艦飾マコは、いつもと全く同じ、眩しいトーンで、スラム全てに響き渡るような声で、はきはきと言った。彼女がローファーで踏むスキップは、相変わらずめちゃくちゃなリズムを刻んでいる。

「…ちょっと寄りたいとこがあるんだ」

 嘘だ。これは、この裏路地に連れ込むための、ただの口実だ。纏流子は改めて、少し罪悪感を感じた。

 この道は、この治安の悪いスラムの中でも、とても人目につきにくい場所である。一人の人間がめいいっぱい両手を広げたぐらいの幅しかなく、まだ明るい時間の筈なのに、光が殆ど差して来ない。それなのに、マコは、全く警戒心を持っている様子が無い。勿論、私がいるから、という理由もあるからだろうが。

『おい、流子』

 胸元から、誰かに聞かれるということも無いのに、何故かひそひそ声で、その生きたセーラー服、鮮血は、私に言った。そして、私は、その呼びかけに答えることなく、前を向く。小走りで駆ける、マコが見えた。私が鮮血をあえて無視したのは、鮮血が私のもつ感情に、気がついていると、知っているからだ。彼は、私の身体の変化にも、心の変化にも、敏感なのだ。

「なあマコ」

 気持ちが表に出ないように、そう呼ぶと、なあに流子ちゃん?と言ってまた小走りで此方に戻ってくる。

「昨日倒したあの、眼鏡男のことなんだけど、」

「ああ、自宅警備部兼帰宅部部長?だったっけ?の、新居戸くんのこと?」

 マコは、昨日、その隣の組の糞野郎に、危うく自宅監禁されそうになっていた。そうされるぎりぎりで私が助けたからよかったものの、奴は、時折、マコをストーキングしていたから、存在を気にかけていたのに、事態を前もって防げなかったことを悔やんだ。そいつは勿論、二つ星だけあって豪華な邸宅に住んでいた訳だが、驚くことに、邸宅中が、フィギュアと、ポスターと、なんだかよく分からない団扇やら抱き枕やらグッズだらけで、生活資金を殆どそれに費やしていたらしい。高一の時でも、そういう系の奴らはいたが、奴らは少なくとも、二次元と三次元の区別くらいはわきまえていたわけで、だから、邸宅の壁をぶち壊して入った時、その謎グッズと同じぐらいの量、マコの写真があったのを見た時は、鳥肌ものだった訳で。

『おい流子、話を聞け』

「…ほんとに、あれ以上何もされなかったんだよな?」

「うん!いつも通り、流子ちゃんがすぐ来てくれたし!」

『お前…怒っているのか?その女に対して』

「…本当に、本当に、怖くなかったのか?」

『流子!』

「そだよ!だってどんな時でも、

 流子ちゃんが絶対助けてくれるから!」

ガシャン!

「そういうところが!危ないんだよマコは!!」

 マコの身体を、トタンの壁と、私の身体で挟む。両手をついて、逃げられないようにする。薄暗くて、はっきりとは見えないが、上目遣いで、いつもの様子で、きょとんとしていた。

「りゅ、りゅうこちゃ」

「そりゃあ、頼られてるのも嬉しいし、いつでも頼ってほしいし、マコの期待に、応えたいけどさ!もしも、もしも、私がマコを、助けに行けてなかったら!」

 言ってて酷く悪寒がする。ああいう奴が、マコに触れるだなんて。そして、もし、マコが、酷いことをされたら。なのに、私は助けに行けないなんて。きっと今の私は、みっともない顔をしてるんだろう。でも、考えれば考えるほど嫌だから。

 マコの脚の間に、左膝を挟んで、左手で右手を封じて、完璧に逃げられないようにする。マコのくりんとした瞳に、不安の色が差す。太腿に触れると、小さく身体を揺らした。小さな声で、私の名前を呼ぶが、無視してそのまま、スカート辺りまで指を這わせた。顔を見ると、伏せ目で、なんとなく切なそうにしていて、つくりと胸が痛む。もう一度指を動かそうとすると、マコは苦しそうに小さく声をあげて、ぎゅうと目を閉じた。

 結局、私は我慢できずに、マコを抱きしめる。

 私が私自身の不安を埋めるためだろう。随分長い間マコを抱きしめていた。

「ごめんね、ごめんね、怖い思いさせちゃったよね。

 でも、こうしないと、分かってくれないって、思ったんだ」

 また、腕に力を入れた。怖い思いをしないと、この子はきっと、分かってくれないと思って、この路地に連れ込んで、こうしようとしたのは、私なのに。そんな顔をされては、そんな声を出されては、やはり駄目だった。

「…私を頼ってくれるのは、本当に嬉しい。けど、マコにはもっと、自分のこと、大事にしてほしいんだ、だから、お願いだから」

 それを伝えたかったのに、結局、マコを怖い気持ちでいっぱいにさせてしまった。ああ、ごめんね、マコ。目の前が霞んでしまう。

「ごめんね、流子ちゃん」

 突然言葉を遮って、マコは、腕を背中に回して、力を込めた。

「私流子ちゃんがそんなに心配してくれてたなんて、知らなかったの。もっと自分のこと、大事にするね。でもね、それでも、ほんとに、ほんとーに、流子ちゃんは助けに来てくれるからって、流子ちゃんだから、大丈夫って、怖くないの。勇気がでるの。流子ちゃんはきらきら星なの」

 ああ、この子は。

「マコは、もっと自分の可愛さを自覚しないと、駄目だ」

 また、力を込めた。

 かなり恥ずかしい事を言ってるような気もするけど、素直に思うまま言う。そう、この子は、誰よりも素直で強くて優しくて、愛しい。大好きな友達。絶対誰にも、やらない。

「あのね、流子ちゃん」

 静かにマコが、離れていく。体温が失われていく感じが、すこし淋しかった。

「あのね、さっきのね、確かにね、知らない男の人にされたら、ちょっと怖いなって、思うけどね、りゅうこちゃんなら、別にいいかな、って、思っちゃったの」

「え」

「なんか、ちょっと、どきどきしちゃって、あれぇ?」

 なんだろう、これ?変なの?と逆に聞かれるが、そんなこと私が聞きたい。そんな、顔を真っ赤にして、どぎまぎして、困ったように、恥ずかしそうに、熱を持った目で言われても。私も、なんだかぎゅうっと心が締め付けられるような、変な気持ちになって、突然顔が熱くなって、恥ずかしくなった。こんな顔見せられない。きっと恰好のつかない顔をしている。

「ねえ流」

「あ〜!もう、そんなんいいから、行くぞ!」

 

 マコの手を繋いで、走る。

 こんなじめじめして狭くて暗い道、とっとと抜け出そう。手汗が滲んで、少し気になったけれど、今はこの手を離したくなかった。

『流子、

 先程からお前の鼓動が酷くうるさいのだが、

 どうした?』

(そんなの自分が一番分かってらぁ!)

 …最後まで余計なセーラー服だと思う。