その日の月は、小さかった。一枚の紙のように薄い月だった。ずうっとうえに昇っていた。たなびく雲が、月を隠しつつあった。完全な闇は、自分の居場所であった筈だった。しかし、今はそうではない。理由は説明できない。しかし、そうではないということだけは、言える。ただ、暗闇に目が慣れてしまうのが、さびしいと思った。誰か隣に、いてほしかった。
(らしくない)
彼は、城の廊下を歩きながら思った。今日は、その者をたずねるつもりではなかったからだ。だが彼は、その者と、一夜を過ごしたくなった。時々、酷く、その顔が、こいしくなるのだ。たわいもない話でよかった。話し相手になって欲しかった。すぐあの声を、聞きたかった。できれば笑ってほしいと思った。
夜がやってきてから随分時間が経ったからだろう、いつものように、よちよちと歩く兵隊は、もう眠っているようで、あの正しいリズムは、どこからも聞こえて来ない。彼は、本当にひとりだと思った。それでも、いつでも話し相手になるという、その者の言葉だけをたよりにして、重い扉を開けた。
「大王」
あまりに部屋が静かだった。彼のか細い声でさえ、響くほど。どことなく部屋の空気はひんやり冷えて、バルコニーの扉は閉じていて、海風が硝子を撫でていた。そこから見える空は、いつになく深い紺だった。大王のベットに目をやるが、青白く光ったシーツが敷かれているだけで、何もない。
(おかしい)
何時もはこの時間、必ずベットで涎を垂らしながら、爆睡している大王がいない。彼は、便所かとも思ったが、それならば寝た跡があるはずだ。しかし、シーツはしわ一つ無い。シーツを撫でても、ただ冷たいだけだった。彼は、辺りを見回してみたが、大王の気配はどこにも無い。
「…大王?」
掠れて、なんだかみっともない声で、彼はもう一度、名前を呼んだ。いつもなら、必ず呼びかけに答えた。時には寝ぼけた声で返事したり、時には、部下が起きるからとひそひそ声で、答えた。しかし、今日は。
「よお」
ずんと空気を振るわせて、その声がした。確かに、低い、テノールの、あの者の声だった。
彼は、ゆっくり、後ろを振り返った。確かに、ドレッサーの曇りのない鏡の前には、彼が求めたはずの、あの者がいた。しかし、彼は、すぐにわかった。大王が大王でないと言うことを。
だから、彼は、素早く間合をとった。姿形が、あまりに大王そっくりで、彼は初めて、「気味が悪い」という感覚を味わう。口角の片方だけを上げる笑い方も、ハンマーの持ち方も、確かに大王そのものだったが、剣の柄に手をかける。
「そう身構えなくても、いいだろ」
そう言う声も、確かに大王なのに、どこか違っていて、と思考を巡らせていたら、じりじりと間合いを詰められる。彼は、気迫に押されて、後ろに下がるしかない。
「お前らしくねえじゃねえか、お前が俺に押されるなんて。いつものようにしてろよ」
『らしくない』『いつものように』という言い方が鼻につく。私はお前を知らないし、お前は私を知らないはずだ、と言葉を紡ぎたかったのに、背中が壁にぶつかってしまって無理だった。目の前にその顔があった。見れば見るほど大王なのに、体はそれを否定する。
「折角お前に近づけたのに」
何がだ、と問う前に壁と体で挟まれるような形になって、完全に身動きが取れなくなってしまった。大王の息がすぐそばにあって、その息は妙に熱っぽくて、伏せ目がちにこちらを見てくる。変に体に力が入ってしまって、合った目から目を離せなくなっていた。私は、どうにか体を右によじると、大王の左手がそれを遮って、邪魔した。
「照れてる?」
「照れてない」
「お前、やっぱ可愛いとこあるなあ」
「黙れ
お前は私の何を知っているというのだ、お前は私の知ってる大王ではない」
「何言ってやがる。お前と俺は、いつも一緒にいるだろう」
私は、大王の言っている意味が、よく分からなくて、首を傾げる。そのとき、大王の体が黒く染めあがっているのが分かった。
「俺は俺だよ、お前といつも話してる、表の方じゃなくとも。お前は、こっちの面を知らないだけで。あいつは、そういう弱みを見せたくないんだろうよ。あれでも、一国を任されてる王だから。本当は、もっと自分は小さくて、弱くて、責任とか期待とか、そういうものに、押しつぶされそうでいるんだ。認められたい、辛い、寂しい、悲しい、貶めたい、怖い、満たされたい、逃げたい。誰だってそうだ。俺も、こういう面がある。お前と、俺は似てる。お前と一緒にいると、心地いいんだ。お前と違って、俺はもっとどろどろして、ぐちゃぐちゃして、汚いけど。お前と一緒にいたい。お前もそれを、求めてたろう?やっと、表に出てこられた。やっと、お前と一緒になれるんだぜ、なあ?」
そうして、彼は確信する。やはり、こいつは大王であって大王でないのだと。
「私は
私は、お前と、一緒になりたい訳じゃない。私は、お前とは違う。
私はただ、大王と、分かりあいたかっただけだ!私は私だ!」
柄に置いていた手から、闇を貫く、光をたたえた剣を、ゆっくり引き抜いた。
「出来るのか?お前に、俺が」
剣先を首筋に当てても、黒い大王は、ただくつくつと笑う。
「お前はお前で、大王は大王だ。お前は大王じゃない。だから私の手で葬る」
「あいつそっくりな俺を?」
「…」
「身体は正直だけどな」
彼の発言は、はったりだった。彼の右手の震えが収まらず、左手も使って剣を構えていた。
「どうする?」
彼には、どうしようもないというのが結論で、いじわるに笑う黒い大王を、睨みつけることでしか、抵抗を示せなかった。
そのとき、強い風を感じた。黒い大王が目の前からいなくなると同時に、見慣れた赤いガウンが、視界に入った。
「大王!」
「大丈夫かマター!」
たなびく赤は、彼の心を落ち着かせたし、部屋に凛と響く声や、木槌の構え方全てが、彼を安心させた。先ほど、左の方で感じた風は、大王のハンマーの振りによるものだったらしい。壁に寄っかかったまま、彼は床に座り込んだ。
「すまねえ、ちょっと待ってろ、よ!」
そう言って、いつものように、右足を強く踏み込んで、駆け出す。大王の体に風がまとわり、左足を軸にして、右手のハンマーを思い切り振った!
しかし、黒い大王も、同じように俊敏な動きで、それをかわす。ち、と大王が舌打ちをし、背後に回られる計算をして、すぐ後ろを振り返り、ハンマーを構え直した。
「もう少しだったのによ」
黒い大王は眉間にシワをよせて、着地した。体の動きで、改めて、黒い大王の強さを感じた。
「俺の尻拭いは俺がする」
「…今日は引くが、覚えておくといい」
にたりと不敵な笑みを浮かべて、ドレッサーまで駆けていき、黒い大王は、鏡に飛び込んで、姿を消した。一瞬のことだった。悪い夢みたみたいに。詰まっていた息が、彼の口からゆっくり出て行った。
「怪我は!?」
思い出したように大王が後ろを振り返って、こちらに走ってきた。私の肩に両手を置いた。
「いや、無い。大丈夫だ」
「そうか…!」
よかった、と何度も繰り返して肩を叩いた。大王が、とても嬉しそうにするものだから、こちらも嬉しくなってくる。私は、大王のこういうところが、とても愛おしく思う。
「なあ大王。あいつは、お前の…」
ああ、と、ためらいがちに、つぶやくように、答えてから、大王は苦しそうに笑って言った。
「そうだ。みっともねえよなあ、一国任されてる王が、あんな弱っちいとこ、お前に見せちまうなんて。それでもあれは、俺の一部なんだよなあ、どうしようもねえよな」
「そうか」
「だから、いつか、きっちりケジメつけてやんなきゃなんねえ」
「いや、」
彼は、大王に、何か言わなければならないと思った。これは、彼の心の問題だと思った。そして、この問題は、一生決着がつかないものだと、直感的に分かっていた。しかし、言葉や感情を覚えたばかりの彼にとって、それを分かりやすく言うのは難しいことだった。だから、手っ取り早いので、そのまま、大王を、胸に抱き込んだ。
「お前もあいつも、悪くない、だから、
もっと大王のことを聞かせてくれ
お前の弱いところでも、駄目だと思ってるところでも、何でもいい
私はお前を、もっと知りたい」
そうゆっくり言葉を紡いで、もっと強く抱き込んだ。体温が、直に伝わってきて、あついと思った。雲に隠れていた薄い月が顔を出して、部屋を少し、明るく照らした。
大王は少し体を強張らせていたし、多分びっくりしていたと思う。しかし、暫くして、少しくすぐったそうに笑って、「わかった」と言った。腕を回してきて、背中をぽんぽん叩いてきた。とても心地いいリズムだった。