大王とあろう者が、こんな者で、いいのだろうか。それが、彼の第一印象だった。何故なら彼が仕えていた王は、感情を持ち合わせることもなく、ただ大勢の影を率いて、闇を統べていたからである。それが、「彼のなかの王」だった。そして彼は、彼の王から産み出された。だから、彼も感情を持ち合わせていない、筈だったのだが。思えば、それは初めて出会った時から、その者には、通じていなかったようだ、と彼は思う。その証拠に、こうしてまた、城を訪れてしまっているからだ。
音もなく、彼は、闇に溶け込む。よちよち歩く、兵隊の影に。彼は、光が苦手だからだ。たったひとりの兵隊の足音が、とん、とん、と正しいリズムを刻んで、廊下に響いた。そして、城の中で、一番大きな扉に落ちる影に、忍ぶ。そのまま、大きな扉の向こうへ行く。
彼が会いたい者は、敷きたてのシーツの上にいた。すう、すう、と、大きな腹を上下にして、ゆったり呼吸をしている。周りを見渡すと、バルコニーに、柔らかい光を放って、沈む夕陽が見えた。その光が、部屋の全てを、橙色に染め上げていた。風がその扉を通って、さわさわと絹のカーテンを揺らす。潮のかおりが、鼻を擽った。まだ夏は、終わらない。
音もなく、彼は近づいた。触れられる距離にまで。しかしその者は、全く目を覚ます様子はない。彼はそれを、不思議に思った。触ったら、どうなるのだろう。小さな疑問が浮かぶ。手を伸ばして、頬に触れる。じわりと、体温が伝わった。
「…んあ?」
そうして暫く経って、鼻を抜けないような声を出して、目を覚ました。まだ、とろんととろけた目のままで、覚醒しきってないのがわかった。それでもその者は、ふんわりと笑って、
「…お前の手は、冷たくて、大きくて、気持ちいいんだな」
と、頬を寄せてきた。
まあ、座れよ、と大王は横たわったまま、ベットをたたいて、隣に座るよう催促してきた。そのまま座ると、そのベットがとても柔らかいものだと分かった。
「お前、まぶしいの、苦手じゃなかったのか?」
確かに、と自分でも思う。夕方に訪れたことは今回が初めてで、今までは夜分だった。そもそもこうして定期的に会いに来る自分も、相変わらず不思議であるのだが。理由がある訳でもなく、訪ねてしまう。なぜかは分からない。だが、そう大王に、打ち明けた時には、暇だから話し相手になるぐらいなら、別にいいと言われた。
しばらく悩んで、ふと思うままに言葉を発する。
「…苦手だが、不快ではない、らしい」
「ああ、なるほど」
それは分からなくもねぇなと、大王は相槌を打った。
「俺も、暗いのは、ちょっとだけ怖いけど、嫌いじゃない。でも、がきの頃は、暗いのが本当に怖くて、夜中に便所も行けなかったけどな」
そして大王は半分沈む夕陽を目で追っていた。橙色の部屋を、青色が占め始めていた。群青に染まりかけた空に、一番星だろうか、たった一つだけ、強くて明るい光が佇んでいた。
「でも、ある日、夜中に屋根に登ったら、夜空が綺麗でな、ああ、暗いのも、悪くないって思ったんだよ。新月の日で、星しか見えなかったし、本当に、真っ暗でな。でも、悪くないって思ったんだよ」
「…分からん」
「何が」
「私にとって、光が不快でなくなったことや、お前にとって、暗闇が不快でなくなったことが」
「ああ」
確かになあ、不思議なもんだよなあ、と大王は後頭をぽりぽりと掻いて、暫くの間、唸っていた。結局最後は、説明できねえな、と言って困ったように笑った。
夕陽の光が、すこし後を引いて、空に紫色を残す。風が、涼しさを連れてきた。夜の気配がした。
「初めに、ここに来た時も、不快でなかった」
「そうか」
「お前は、どう思っていた」
「…怖くなかったっつったら、嘘になるだろうな。今はもう、全然だけどな」
「何故?」
「お前が、変わったから」
変わった?私が?変わったとは、どんな風に?首を傾げて、答えを待つ。
「だってお前、最初の方、返事が、イエスかノーか無言しかなかったし。俺が、一方的に話してるみたいだったじゃねえか。だから、よくわかんねえなーって思ってた。でもお前、今じゃ大分自分から話してるし、それにほら」
大王は突然体を起こして、私の頬に、手を当てた。手袋越しに、じんわり体温が伝わる。
「ほれ、どうだ?」
「…体温が、伝わる」
「それは多分、『あったかい』ってことだろ?」
「あったかい?」
「そう、あったかい」
「そう、なのか、これが、あったかいか」
「ああ」
「…不思議だ」
「そう、それだよ!」
突然、触れてない方の手で、私の目の前に指を一本立てて、そう言い切った。
「お前、気持ちを言葉に出すようになったんだ。まだまだ、がきんちょみたいに、拙いけどな。だから、俺は、お前のことを、ちょっとずつ解ってきてるんだ。お前が何を考えているか、少しだけな。だから、不安じゃない」
そう言われてから、思った。夕陽の光が、柔らかいと思うのも、潮風で夏を感じるのも、ベットがふかふかだと思うのも、きっと、我が王に使えている時だったならば、全く気に留めることではなかっただろう。しかし今は、こうして、そういう感覚として、感じていた。そして、それが、不快ではないと、思えるようになっていたことも。
「お前ら暗黒物質は、感情が無いんだと思ってたんだ。でも、お前らは、感情が無かったんじゃなくて、感じるきっかけが無かっただけで、俺たちと、一緒なところがあるんだって、解ったんだよ。そうしたら、全然、怖くなくなった。光が、悪くないと思えるようになったように、闇が、悪くないと思えるようになったように」
ああ、そうか。すとんと、それが、胸に落ちてきた。心地よい無音に包まれる。そうか、と、何度も自分に言う。そうだな、と大王も答える。大王は含み笑いで、私の目を見つめてきた。腑に落ちたのは、大王も同じのようだった。
「帰る」
「お前、突然、いつもそれだよな」
「…またきても、いいか」
「言ったろ?話し相手ぐらいなら、いつでもなってやるって」
大王はそう言って、大きく笑った。ああ、悪くないと思った。
もう、夜が、やってきていた。瑠璃紺色の夜空が、私を寛大に、優しく受け入れ、私はそれに身を委ねて、溶け込んだ。私の真上には、満月が、小さく浮いていた。星々が、月を讃えているかのように、煌めく。それらもまた、私を受け入れてくれた気がした。
そうしてまた、ああ、悪くない、と思った。