初めて水深60mに達したとき、私は、とある本で読んだある一節と、なぜか胸に抱いた娘の艶やかな髪に浮かぶ天使の輪のことと、かつてあの50日間の旅を共にした「彼」の腹に空いた、大きくまあるい穴を思い出した。
『深海の、果てしなく青一色の世界の静寂に包まれてただ一人となるとき、時間と空間と光はひとつのものとなり、私は私の呼吸を一時止めて宇宙の呼吸に身を委ねる。』
それは確か、「イルカになりたい人間」の著した本だったか。
自分の研究分野と違うのに、どうしてこうもはっきりと覚えているのだろうと、ヒトデを専門とする海洋学博士である空条承太郎はぼんやり思った。
同時に、承太郎は、その筆者の表現がとても的を射ているとも思った。深海60mは、太陽の輝きも次元も時も関係なく、水に飲み込まれてしまう。また、私というちっぽけな存在も散け、霞み、その深い青に溶け込んでしまう。
『そこには青しかない。上も下も左も右も、すべてが同じブルーに包まれる深海である。それを私たちは「グラン・ブルー」と呼ぶ。』
その通りだ。本当に。
温かくもなく冷たくもない、享受も拒絶もしない。ただそこに青がある。方向が分からなくなる。頭の中に他の色の介入を許さず思い出させてくれない。何もかもが空っぽになったような錯覚がして、そこに私がちゃんと存在しているのかすら分からなくなる。水の塊のなかに押し込められてるような奇妙な感覚があることで、私はかろうじて現世にいるんだと思える。
かつて、私たち人間の遠い遠い祖先は、ここに生きていた。そこに、私は還ってきた。そして「彼」もここへ還るのだ。
▫︎2000.10.08 11:37 日本時間
O県、本島上空。雲の切れ間から、エメラルドグリーンの海が私を歓迎し、手を振るように煌めいた。
私は、この島に来たのは初めてでなない。ここへ来るたびに──「彼」にこの宝石みたいな海を見せたかったと思い、喉と胸の奥がちりちりとなる。それでもこの島は、どんな私だろうと関係なく、変わらない青い空、柔らかで少しだけしょっぱい潮風を吹かせて、いつも通り私を受け止めてくれる。私の、クリーニングにかけたばかりの白衣が、船の帆のようにその風を掴んで舞い上がったので、私は初めて漁に出かける船頭になったような気持ちになった。風に飛ばされないよう深く帽子をかぶりなおして、はじめの一歩を踏み出した。
承太郎は海沿いにある海洋博公園を訪ねていた。かつてここは、国際海洋博覧会が行われ、これからその跡地と建物を使い、新しい水族館が建てられるという。承太郎がここへ来たのは、
①動物取扱責任者による水族館仕事の助力のため
②周辺の深海で採集された新種や稀種と思われるヒトデの分類と解析の手伝いのため
③彼自身のフィールドワークとしてのヒトデの採集または研究のため
である。
…あくまで立前は、だが。
「お待ちしておりました、空条博士。この仕事を快く受けてくださって、ありがとうございます。館長になる、藤と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
館長は、私の頭二つ分小さく、頭はスキンヘッドで、黒々としたちょび髭を生やす、朗らかそうな男だった。私は、彼の富士山みたいな形の唇を見て、なんとなくウミガメを連想した。彼はその唇の端を下げ、小さな丸い眉を顰め、申し訳無さそうに言った。
「予定が遅れ、着工したばかりでーほとんど何もできていませんが、ぜひみて回ってみて下さい。野外展示のアザラシ館やイルカプールの方はできております」
「ありがとう」
元々、海の動物をみているのは好きだ。この後、自身のフィールドワークを予定していたが、私は、野外展示を少しみて回ってから行くことにした。
そこから少し歩いたところにあった、緩やかな楕円形の広々とした水槽には、たった一匹のイルカが、悠々と泳いでいた。
まったりと水面を漂うように腹を上にして浮き上がったり、体の向きを変えてまた深く潜りなおしたりを繰り返していた。すると、水槽の縁から、ショーステージに登ってきた私の気配を察したのか、ヤツは私の方へ顔を向け、そろそろと近づき、顔を水面から出し、
「きゅ」
と控えめに一回鳴いた。
▪︎1988.11.30 12:32 香港時間
ああ、風向きが変わったと、煙草の煙を見て気付いた承太郎はゆっくりと空を仰いだ。
うんと上空の雲の動きが変わっている。もう一度海へ目をやると、青黒い海面はぬらぬらと蠢いていた。承太郎の学ランが強くはためき、煙の灰色とその黒が、鈍色の雲に馴染んだ。
この日、承太郎たち一行はエジプトへの空路を断たれ、香港から出航する海路を選んだ日であった。そう簡単にエジプトには行かせてくれないであろうとはハナから分かっていたことだが、まさかエジプト行きの飛行機を墜落させてくるとは。
思っていた以上に険しい旅路になるのだろう。DIOの元へたどり着き、倒すことができるのだろうか。母の容態は。これから悪くなる一方であるというのに。こんなところで足を取られている暇はないのに。承太郎の中で予感と焦りが膨らむ。
彼は昔から冷静で理知的な男であったが、重い命がかかっているこの危険な旅において、既にいっぱいいっぱいであった。器いっぱいの水が、表面張力で辛うじて溢れるか溢れないか、そういう感じだった。
「隣、いいかい」
はっと顔を横へ向けると、柔らかく笑う花京院典明の鳶色の目とかちあった。
「彼」──花京院典明は数時間前、知性と力を兼ね備えた戦略で、見事にひとりのスタンド使いを倒してみせた承太郎の仲間だ。花京院は元々、肉の芽を植え付けられていたDIOの手下であったが、それを承太郎が取り除いたのだった。
承太郎自身はどうして自分の身を危険にさらしてまで花京院典明を助けたのか分からなかったし、正直、このときも分からないでいた。さきの戦闘で頼りになるのはよく分かったが、肉の芽を抜く時点ではあくまで敵だったのだ。
歳が近く同じ学生だから?
同じ日本人の血をひくから?
正義感?
彼にはどれもしっくりこなかった。ただ、本能的に、とにかく自分が彼を助けなければならない、助けたいと感じた。自分がその時、そう感じ、そうしたのだから、それでいい。空条承太郎はそういう男だった。
「ああ」
だから、別に拒む理由もある訳がなく、隣を許した。むしろ興味があったのだ。さきの戦闘で、承太郎は彼の強さと知性に信頼を寄せつつあったし、理由はどうであれ、自分が彼にきっと何かを感じて、助けなければと思ったのだから。花京院は、ありがとうと小さく言って、承太郎のように手摺にもたれた。
しばらくふたりは無言だった。ただ遠くの青い海をみていた。花京院は何も言わずに、ただその燃えるような髪を風に任せて、そこに佇んでいた。承太郎にとっては、それがとてもありがたかった。承太郎の器の水は、溢れることなく静かになって、凪いだ海のように、大らかになっていた。
承太郎の側に寄ろうとする連中は、彼のことを矢鱈に詮索したり、好いてもらおうと必死になったり、勝手に恐れ慄いたり──彼の波を荒立てるものたちばかりだった。花京院は、そういうところで、今まで会ってきた人間とは、既に違っていた。無闇に前へ進もうとする船でも、風を読もうと必死になる旅人でもない。凪いだ碧い海にまったり浮く、小さいヨットみたいだった。
また暫くして、承太郎と花京院は、ぽつりぽつりと会話を交わしはじめた。本当にたわいもない、どうということのない、学生らしい会話だった。多分、花京院は、自分のことを分かろうとしていた、と承太郎は思う。そんなことをしようと思わなくても、花京院はそれが自然にできていた。嫌悪を感じさせないし、目をみて話を聞くし、自分が言葉に詰まった時には助け舟を出してくれた。こうも自分のことを汲み取ってくれようとする他人は、初めてだった。
「君はおもしろいなあ」
承太郎は、嬉しそうに笑う花京院をみて、彼をもっと知りたいと思った。
▫︎2000.10.10 13:10 日本時間
思っていたより会議が早く終わったので、私はまたイルカに会いに行くことにした。今度は、飼育員を連れて。
なぜなら、一昨日、あの後イルカは私に対して、奇妙な行動をとったのだ。帰ろうとすると、きゅーっと高い声で鳴いたり、頭をぐるぐるさせたり。しかし黙って立っていれば、すいすいとプールを優雅に泳ぐのだ。何か意味のある行動なのだろうか?と今日の会議の前に、藤に聞くと、
「それはユイにいちばん詳しい、昴くんに聞くといいでしょう。あとで、彼を博士とご一緒するよう言っておきます」
イルカの名前はユイと云うらしい。そして私の少し後ろに付いてくるのは昴くんという、20そこそこの若い飼育員だった。
「承太郎サン、それは貴方がユイに好かれてるんです」
「私が?」
「ユイは人見知りなんで、そういうの、すごく珍しいんですわ。折角なんで、一緒に遊んだげてください」
イルカに好かれるようなことは全くした覚えがなかったが、好かれるのは悪い気分ではないので、また行くことにしたのだ。ユイは、一昨日のように私を見るなり近づいてきて、同じように一度「きゅう」と鳴いたのだった。
昴くんと私がステージに上ると、やっぱり彼女(ユイはバンドウイルカの雌だ)はプールをぐるぐる回るのだった。昴くんは納得したようにうんうんと頷いて、私と目を合わせて抜けきらないお国訛りで、にっこり笑って言った。
「ほんま珍しいです。好かれてるどころか一緒に泳ごう言うてはる。人間の色男も分かるんやろか…承太郎サン、この後暇ですか?」
ユイと一緒に泳がないか、という提案を断る理由もなかったので、私はこの日から、ユイと泳ぐことにしたのだ。ユイと泳ぐという行為は、その後暫く私の日課になることになる。ユイは、私に何を感じたのだろうか。この時点で私は、ユイはが私に何を伝えたがっているのか、分からなかった。
▪︎1988.12.06 21:47 シンガポール時間
承太郎と花京院は、この日、宿で同室になった。ポルナレフが、ガクセー同士話し込むこともあるだろう?と承太郎の肩を叩いて言ったのだ。
ポルナレフは、最近仲間になったスタンド使いで、なんにしても飄々として緊張感ゼロでとぼけた男に見えるが、何にも屈しない騎士道をもっているし、年下のかわいい仲間に配慮ができる思慮深い一面もあるのだ。多分、この時からポルナレフは承太郎が花京院を気にしていたのを知っていて、そうしてくれたのだろう。彼らにとって、ポルナレフはいいお兄ちゃんなのである。
承太郎は、花京院との距離の詰め方が分からないでいた。たわいない話は沢山した。好きな小説作家や相撲選手、最近観た映画の話、ゲームの話、聞く音楽、好きな色、得意教科、苦手教科、趣味、習っていたこと…とにかく何だって話を聞いた。花京院が承太郎に聞くことも沢山あったし、意外だとか、面白いだとか、彼が反応してくれるたび、それだけで嬉しくなった。花京院のことを知れば知るほど、彼との距離が近づいていく気がした。
しかし、それ以上にいけないのだ。いくら彼の情報を沢山得ても、彼は奥底に閉まった本当の感情を表に出そうとしない。それはあからさまだった。
だから、花京院が承太郎のことをどういう風に思っているのか、仲間たちに対してどう思っているのかは、真に分からなかった。もっと知りたい、教えてほしい、隅々まで。こう思ってるのは自分だけなのだろうか。承太郎は、花京院の間に、薄い膜みたいな隔たりを感じていた。
だから、今日こそはこの膜を破ってやるのだ、と承太郎は心の内で静かに燃えていた、のだが。いかんせん彼はシャイだった。しかも短気で口下手ときた。どこまで話していいのか、どこまで踏み込めばいいのか分からない。だから、その膜の破り方も分からない。しかし彼だけとは言わぬ、大抵の日本男児はそうであると断言しよう。ここまで花京院のことを聞き込めた彼を、寧ろ褒めてやってほしい。
そんなわけで、空条承太郎は窓際でもやもやしながらタバコを吸っていたのだった。彼は、これほど他人を知りたいと飢えに飢えてる自分を知らなかったし、こういうことに不器用な自分を初めて恨めしく思った。空にはただ、半月がぽっかり浮かんでいた。
「上がりましたよJOJO、どうぞ」
ふと声のする方へ目をやると、そこに、シャワーを済ませた花京院がいた。